「『豊かな』子どもたちを見て」

糸澤圭史



「世界子ども通信プラッサ」第23号(2006.5)の記事を許可を得て掲載しています

 
ブラジルの子どもたちには学校にすら行けず路上での労働や生活を強いられている子が大勢います。私は彼ら彼女らをこの目で見るべく2005年2月から3月にかけてブラジルに足を運んできました。そこで出会った子どもたちは「豊かな」子どもたちでした。この「豊かな」子どもたちとNGOエマウスについて1人でも多くの人に知ってもらいたいものです。


なんとしてもこの目で! 〜エマウスに行った経緯〜


 「世界にはこんな子どもたちがいたのか!」ブラジルの路上で働く子どもたちについて知ったときの率直な感想でした。私が彼らの存在を始めて知ったのは大学1年生の時、『ポルトガル語圏の世界』という授業で『働く子どもたち』というビデオ見て衝撃を受けてからのことでした。

家庭にお金がないために学校へ行くこともできず、家庭のために働く子どもたち。子どもたちには働く上での法的な権利が認められないため大人にいいように搾取され、学校で得る教育の代価とは比べ物にならないほどの低賃金で働かされていました。さらに教育を受けずに育った子どもは将来所得のいい職に就くこともできず大人になったとき再び貧困に直面するという悪循環、そして子どもに対する教育が保障され、職に就いた後でも親の支援を受けることがある日本では考えられないブラジルの現実を、ビデオというメディアを通してですが垣間見たことに私は驚きと自分に対する後ろめたさを感じていました。

それが単に一過性のものではなく、ブラジルの富の分配の不平等や教育インフラの不整備などの社会構造の問題から慢性的に起こっているものだと知ったとき、生まれた国や社会1つで人の運命は変わってしまうのかと何かはかないものを感じました。それと同時に、子どもたちのためにこの社会や子どもたちのために何か自分ができることはないかと考え、ブラジルのストリートチルドレンや発展途上国に関する開発について調べているとき、地域で社会を変えようと活動しているNGOについて知りました。

その1つがPRACA創刊時スタッフの1人であり、上智大学ポルトガル語学科講師である田村梨花先生が携わっていたブラジルのパラー州(ブラジルの北部に位置する地域)ベレン市のNGO、エマウスでした。エマウスとは路上で働いている子どもたちに人間としての生活と権利を知ってもらい、子どもの自律性を援助するといった教育を目的とした地域NGOです。

私はこのNGOがどのような活動を子どもたちに行っているのか、そして子どもたちがブラジルでどのような生活をし、今の生活に何を感じながら生きようとしているのかを、なんとしても実際にこの目で見たいと考え、先生と幾度も交渉しました。その結果、私は2005年2月にエマウスの活動に実際に参加できることが決まりました。


 行ってみないとわからないな  〜旅立ち前のブラジルイメージ〜


私が抱いていた出発前のブラジルのイメージというのは、本当に漠然としたものでした。大学でポルトガル語やブラジル関係の授業を受けたり、いくつかの本やビデオで多少情報は得ていたのですが、頭の中で路上の子どもたち、ビーチのきれいなブラジル、ノリのいいラテン系の人々といういくつかのステレオタイプ的なイメージが頭の中で未だ錯綜していた状態に過ぎませんでした。

それは実際にブラジルの大地を踏みしめ、空気を吸い、ブラジル人と触れ合いながらその場で生活することで得られる感触とは程遠いものでした。

実際にブラジルへ行って見ると、日本との文化や町並みとの違いに驚いたものの、ビデオで見た苛酷な社会ともまた違ったものでした。全てが日本のように整備された都市社会でもなければ、全てがアマゾンのジャングルのようなところでもありません。街の大半にはコンクリートが道路や大きなスーパーマーケット、ショッピングモールもあります。ただそれが日本ほどシステマッティックに整備されておらず、ブラジル風にアレンジしてあったという感じです。

ただ路上は大きく違っていました。ブラジルの路上の特徴として顕著だったのが露店がとても多く、商売をしている人が至るところにいたということです。商売人は大人から子どもまで、売り物はお菓子や果物、野菜などの飲食類、新聞、雑誌等の読み物などを売っていました。さらに最も私を驚かせたのがタバコが1本(1パックではありません)から売っていたところでした。

日本ではタバコを1本単位で売買するということは、売る方も買う方もお金のやりくりが面倒なのでまずありません。しかし、それがブラジルでは日常生活において当たり前になっていることから、日本との物やお金に対する考え方の違いを感じました。このように、どんなものでも簡単に商売を行うブラジルにおいては、子どもが店番などの労働力として簡単に使われてしまうことになぜか納得してしまいます。

ともあれ日本でイメージばかりが先行し想像していたブラジルと実際に見るブラジルは違い、行って自分で具体的なイメージが持てるようになって初めて、これがブラジルなんだなとやっと実感がわきました。やっぱり自分で足を運ばないとわからないものです。


 路上の子どもって… 〜路上視察より〜

私がエマウスに行って最初に参加した活動というのは路上視察でした。これはエデュカドーラ(教師)と呼ばれるエマウスのスタッフたちが路上を見回り、路上の子どもたちの様子を観察するというプロジェクトです。ストリートチルドレンがどの地域に多く存在し、どのような労働をしているか、そしてそうした子どもたちはエマウスに入ってやっていくことができるかどうか、などを把握するためのものです。  

私がその活動に参加した初日は男性1人、女性2人のエデュカドーラたちと、エマウスに研修に来ていたドイツ人の女の子と私の5人で小さな市場の方へ行きました。15分くらい歩いていると、さっそくお菓子売りをしている男の子に出会いました。時間はまだ朝の9時過ぎ。男の子は見るからにまだ10代前半であり、日本ではどう考えても学校に通っている時間です。私は思わずこんな時間に子どもが働いているのかという現状を目の当たりにして、さすがにショックを隠せませんでした。  

エデュカドーラは子どもに自然に話しかけ、お菓子を買いながらたわいない世間話を始めました。しかし、話をしながらもエデュカドーラは子どもの話す情報(名前、住んでいるところ、両親についてなど)をしっかりメモしていました。確かにストレートに「子どもに路上の生活は嫌か」と尋ねるようなアプローチでは大人を信用していない子どもが本心を話してくれないでしょう。話をして子どもを安心させることで、子どもの警戒心を徐々に和らげていくということを狙っているようです。うまいやり方だと私は感心しました。  

他の子どもたちにも同様なアプローチで接し、巧みにこの地域の子どもたちについての情報を蓄積させているようです。また、何度も何度も同じ子どものところに話しに行くことで、その子の信用を得ると同時に、いずれはエマウスへその子を入れるべきか推し量っているようでした。  

ともあれ路上視察を通して、路上の子どもたちがどのような生活をしているかを実際にこの目で見ることができたのは大きな収穫でした。30℃以上あるかと思われる暑さの中で、延々と物を売っている子どもには子どもらしい元気さはほとんど感じられません。

母親と共に物売りをしている子どももいたのですが、その母親自身にもはや生気が感じられず、一緒にいる子どもの元気が出なくても仕方がないと考えると同時に、このような母親を何人も作り出したブラジル社会の構造に憤りを感じてしまいました。


 子どもたちに自主性を 〜Arte de Viverでの活動〜

  エマウスで私が2つ目に参加したプロジェクトが、女の子たちの職業訓練の場であるArte de Viver(生活の芸術)です。ここでは小学生や中学生くらいの年齢の女の子が、ミシンの使い方や裁縫など働くのに必要な技術を身につけたり、性についての知識や家族を持った女性の生き方などを学んだりしています。  

私が参加した日は、10〜16歳程度の女の子10数人とエデュカドーラ2人が集まってポルトガル語の文章と絵を使って討論を行いました。残念ながら、私のポルトガル語力が未熟だったためにどんな討論を行っているのか詳しくはわかりませんでしたが、どうやらトピックは家事や夫の世話をしない怠惰な妻についてのようでした。
まず子どもたちに順々に文を声に出して読ませていましたが、これは子どもたちに文章を読む練習を意図的にさせていたのではないかと考えられます。そして一通り読み終わるとエデュカドーラがその文章に込められた意味を説明し、次いで子どもたちが自分なりの意見を次々とぶつけ合っていきました。 

恐らくこの企画の狙いは、少女たちに自分とかかわりのあるイメージしやすい題材で自分の生き方について真剣に考えさせ、それによって自分の生き方を確立できるような人間になって欲しい、といったことではないでしょうかと私には思えます。また、意見の述べ方も教師が生徒を指名するといったやり方ではなく、生徒が自主的に手を挙げるというやり方を採っていました。エデュカドーラは子どもたちに考えるきっかけを与えたり、一般の女性の生き方の説明など、子供たちが自分で物事を考えるサポートをしていただけで、話し合いはあくまで子どもたち主導で行わせていました。子どもたちに自主性を持たせるというエマウスの方針が色濃くでていた感じがしました。  

その後、少女たちは縫い物とポスター作りの二手に分かれ、私は縫い物班に同行しました。私は自分が中学生のとき家庭科の時間は大嫌いで縫い物なんかは早く提出することしか考えていなかったのですが、少女達が自分の人生のために一生懸命、そして何より楽しみながら縫い物をしている姿を見て、なんだか自分が恥ずかしくなりました。彼女らはただ服を縫うだけでなく、私が参加した時、彼女らはスカートをミシンで縫っていたのですが、ただスカートをミシンで縫うだけでなく、様々な色の布を腰より少し下の部分に縫い合わせることによって、世界に1つしかないデザインのスカートを完成させました。見事なものです。私は、子どもながらの発想と工夫にいささか感動を覚えました。彼女らが使えるものといったら余った布くらいしかなかったのですが、彼女らなりに創意工夫を施してよいものを作ろうとしているのがよくわかります。

そしてこのプログラムの上手いところは、子どもたちが作った服をそのまま自分たちで使わせようとしているところです。自分で着る服なら女の子なら可愛く工夫するのは当たり前ですし、作るモチベーションも上がります。そして自分の物を自分なりに考えて作るということを通して、新たな発想や考え方、そして物を作ることへの実感をこのプロジェクトで学んでいるのではないかと私には感じられました。  

余談ですが、この時間私はある女の子の数学の宿題を手伝いました。教えたのは日本の中学校で習う平方根や三乗根の解法。長らく使っていない数学の知識を思い出せるか最初は不安でしたが、なんとか思い出しました。

まさかブラジルに行って平方根を教えることになるとは思っていなかったので戸惑いはしましたが、我々日本と同じ勉強をこの環境で教えることができて逆に嬉しい面もありました。

きちんと教えれば彼女も問題を解けるようになったので、この子らはやはり環境が整えば様々な可能性が開けるという期待を感じた反面、子どもたちとってもう少し勉強ができる機会がこの社会にあればなあとも考えました。世の中そうは思い通りにはならないものですね。

 豊かな才能 〜子どもたちの芸術学校〜

 エマウスに通って2週目。この日の午後、私は2人のエデュカドーラに連れられて地域の子どもたちの芸術学校、Curro Velhoというところを見学させてもらいました。エマウスそのものではないのですが、エマウスと関係がある学校らしいのでここで見たことを少しだけ触れておきます。

この学校は写真撮影や現像の技術、絵画、彫刻、機械工作、さらには演劇やダンスまで教えている学校です。写真や絵画は作品そのものを見せてもらっていないので詳しくは話せないのですが、写真室は中々本格的な現像ができるようになっていました。

いつかは写真家を夢見る子どもたちの、夢の実現の一歩目となっている場所のように感じられます。彫刻や機械工作は日本人が中学生でやる図画工作や技術の授業から、職業的な機械、例えば紙や金属を加工する機械などの使い方を教わるものまで幅広くありました。中でも工作作品をいくつか見ていると、子どもたちが楽しんで作っているのがよくわかるような子どもならではの工夫があります。(小中学生時代の図工の授業を思い出せばよくわかります)エマウスのArte de Viverでも感じましたが、子どもたちは環境に恵まれないながらも、今ある環境で少しでもよいものを作ろうと試行錯誤しているようです。

そして私が一番驚いたのは入口にある壁画です。この入口は高さ10メートルはあると思われるのですが、そこの一面にきれいな絵画が描かれていたのです。それは動物や魚、船、家、楽器、自然、人の顔など、様々なものが重なり合い、1つの絵となっていたのですが、それはすべて子どもたちによって描かれたものらしいです。

10メートルはある壁一面にそのような絵をどうやって描いたかはよくわかりませんが、その絵を見ていると日本の子どもたちとは何かスケールが違うと感じました。(もちろん日本の子どもたちもやればできるとは思うのですが大胆さが違うというわけです)ブラジルの子どもたちは我々日本人が考えている以上に豊かな才能を秘めているようです。それがいい環境に生まれなかったというだけで、ごく一部のものだけしか日の目を見ず、残りの者は社会から見過ごされるのが私には残念で仕方ありません。くどいようですがもう少し彼らにチャンスがあればと思うばかりです。

快い自然とあふれる元気 〜遠足〜


 エマウスに来て3週目。私は子どもたちと遠足に行くというプロジェクトに参加しました。遠足といっても、車で1時間半ほどのところに子どもたち10数人と川のあるキャンプ場のようなところに遊びにいくというものです。しかしいざ行ってみると、そこはアマゾンのジャングルのようなところで、日本人の私はあまり人の手が入っていないその自然に感動を覚えました。

 ここでは子どもたちは川で泳ぎ、カヌー(ボート乗り)をし、さらにはサッカーまでして思い思いに日々の生活によるストレスを発散させているようでした。私自身川で泳ぎはしなかったのですが、カヌーとサッカーで子どもたちと一緒に思いっきり楽しみました。子どもたちの元気さといったらエマウスで見る以上に活気にあふれているもので、思わず私もはしゃがずにはいられませんでした。
サッカーのときは子どもたちはどこまでも走り、いつまでもサッカーを続けていました。どこで覚えたのか、名サッカー選手がやるようなフェイントをいとも簡単にこなし、ボールをひたむきに追う純粋さとゴールを決めたときの喜びようは、子どもたちを輝かせるほどでした。

エマウスに通っている子どもたちは、日々の環境に恵まれない、もしくは恵まれなかった子どもたちばかりです。当然自分たちの貧しい生活にやりきれない思いもあるでしょうし、日々の精神状態も不安定なものとなっているのではないでしょうか。ここは、そんな子どもたちが日々の不満をぶつけるはけ口となっているのではないかと考えられます。こうして定期的にストレスを発散させることで、少しでも安定した心で明日からの生活に戻れることを狙いとして、このプロジェクトがあるのではないかと私は感じました。
 「豊かな」子どもたちの現状を知ること 〜エマウスでの経験を通して〜


 ここまで私のエマウスでの3週間に渡る経験を話してきましたが、最後にこの体験を通してブラジルやその他の社会に対する意見をこのレポートの結びとします。私がこの3週間を通して一番感じたことは、ブラジルの子どもたちの多くが豊かな才能と陽気でおだやかな心を持ち合わせながら、貧困という劣悪な社会環境にさいなまれ、その力を発揮できないばかりか逆に社会の下層へと追いやられている状況がまだまだあるということです。冒頭にも軽く述べましたが、ブラジルは世界で相当な上位に位置するほど貧困格差が激しい国です。それは不平等な格差を表すジニ係数が世界第4位という数字が物語っています。

 そして貧しい子どもたちの多くが学校に通うことすらできません。なぜなら貧しい家は子どもと学校へ通わすお金がないこと、(学校に通うお金というより教科書などを買うお金がないそうです)学校へ行く時間働いてお金を稼がなければならない、もしくは親に働かされること、そして学校そのもの質がよくない(教職員の給料が安く、よい人材がいない)ことなど様々な原因があるからです。

そして学校へ行かず、家庭内暴力などで家を出ること余儀なくされた子どもたちは、路上で生活することになります。路上で暮らすということは様々な弊害があります。満足な食べ物や寝床を確保できないことはもちろん、麻薬や売春による危険、汚いと思われたり盗難を犯すというレッテルを貼られて地域住民から締め出されたりもします。

そして満足に教育を受けずに育った子どもが大人になったとき、職に就けずに路上で暮らしたり、貧しいまま家庭をもつということになります。その家庭で生まれた子どもは、また親と同じように貧困の道を歩むことになります。このようにブラジルの貧困構造は一つの悪しきサイクルとなっており、豊かなものは豊かに、貧しいものは貧しくなるというように格差は一向に回復の兆しを見せません。

 そんな社会を少しでも変えようと動いているのが、エマウスを始めとするNGOや国際機関です。エマウスは子どもたちを路上生活から解放させ、将来職に就くチャンスを少しでも増やすために職業訓練や売春麻薬撲滅など様々なプロジェクトを行っています。確かにエマウスでブラジル社会全体を変えることはできないかもしれません。ただこうして誰かが少しでも動くことにより、同胞社会や他の社会へ連鎖反応が起こり、いつか大きな力となるのではないでしょうか。
 

私自身エマウスから学んだことは少なくありません。ブラジルでは様々な子どもたちを見てきました。路上で眠っている子ども、暑い中路上で商売をしている子ども、とても人が住むところとは思えないところで生活している子ども、幼くしてタバコを吸い、言語障害で言葉が満足にしゃべれない子どもなど日本では考えられない子たちばかりです。

しかしエマウスやCurro Velhoで見た子どもは、絵画や工作で随所に豊かな才能や路上の子とは比べ物にならないほどの元気さ、よその国から急に来た日本人の私を快く受け入れる心の優しさなど素晴らしいものをたくさん見せてくれました。彼ら彼女らもかつては同じ路上の子どもたちです。エマウスの活動がなければ、この子どもたちも路上の子どもたちと変わらない人生を過ごしていたはずでしょう。

私はこの活動を通して、社会は変わらないだろうと始めからあきらめず、少しずつでもまず動くことで少しずつでも何かは変わるということを学びました。子どもたちは彼ら彼女らによってチャンスを与えられたのです。もっと基本的な生活リズムや教育や訓練の機会があるだけで、子どもたちの多くは変わるはずです。

 エマウスでの体験を通して、私はブラジルの子どもたちは「豊かな」子どもたちと感じました。ここで言う「豊かな」というのは(題名と同じ意味です)お金があるとか裕福な暮らしができるという意味ではなく、才能や心に豊かさを持ちながら子どもたちをとりまく劣悪な社会環境によって、それを発揮できずに社会から排除されていくことに対する皮肉を込めて「豊かな」としたわけです。しかしエマウスでの活動がなければそうした「豊かさ」を発見することすら私はできなかったでしょう。

 これ以上社会のことに意見するには私はまだまだ未熟すぎるのでここで止めておきますが、最後に大学生でもできることを述べておきます。それはブラジルそして世界の不遇な状況に立たされた子どもたちのことに少しでも耳を傾け、知って欲しいということです。少しでも多くの人が知ってくれれば、この状況を変えるために動いてくれる人が少ないながらもでてきてくれるだろうと私は考えているからです。 

また、多くの人が知っていれば誰かが動いたときそれに支援してくれる人も出てくるかもしれません。支援してくれる人が多ければ、そうした動きは大きな力と変わるのではないでしょうか。そして子どもたちが自分たちのことを知ってもらえているというだけで、生きる勇気が出るかもしれません。伝わるかどうかわかりませんが。

 そして紙や映像で見るだけでなく、実際に足を運ぶことをお勧めします。本や新聞、映像の情報は一部の状況を切り取り、パッケージ化したものを受け手に提供しているにすぎません。それが全てだと考えてしまうと、ことの全体像が見えてこなかったり、間違った偏見が植え付けられてしまうこともあります。

例えば、ブラジルの住民がストリートチルドレンのことを厄介な連中と排除するのは、一部の報道や彼ら彼女らの一面しか見ていないからです。日本でもブラジルといえばサッカーやリオのカーニバルというイメージが先行するでしょうがそれが全てではありません。カーニバルのとき、各国のメディアや観光客が大勢訪れるということで、街から汚く見える子どもたちを一斉排除するという動きも裏では起こっているのです。

こうした誤解や偏見を払拭するためにも、そして自分でその状況を感じ取るためにも、実際に自分で子どもたちのもとへ訪れてはいかがでしょうか。

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